人は年齢を重ねるほど、好きになる対象が人間から離れていく、というような話を聞いたことがある。なるほど確かにそうかもしれないな、と近頃よく思う。
* * *
どういうことかと言うと。
「まず最初、若い時分において、彼ら彼女らが好きなものは人間である。
青春期の特定個人への恋慕は言わずもがな、男女関係とは無関係なその他大勢においても、あの人は好きだの嫌いだの、あいつは優秀だの愚鈍だの、若い人というのは自分の周りにいる人間への興味が尽きない」
わかる気がする。身に覚えもある。
* * *
「次に、そういった時期を過ぎ、年も四十五十になってくると、多くの人は自分を取り囲む人間への興味がひと段落つき、今度は人間以外の生き物を好きになる。
犬や猫や鳥、身近な動物が見せるあっけらかんとした表情、裏表のない仕草、本能まるだしの行動が、人間に飽いた心を休ませる」
これもわかる気がする。自分は正にこの時期にいると思う。
散歩してる大型犬とすれ違ったときのテンションの上がり方は以前より強くなってるし、道端を歩く鳩を見る目も昔に比べると格段に優しさに満ちている気がする。
* * *
最近に至ってはペットや野鳥では飽き足らず、食材にさえ愛おしさを感じ始めている。
スーパーの鮮魚コーナーに行って水の入った発泡スチロールの箱の中に蟹や海老がいたりすると、もう足が止まってしまう。足や触覚が動いているのを確認するまでそこを離れられない。動くと安心して立ち去る。
その動作は小さいながらも確かな命の躍動を感じさせ、水族館に行かずとも水中のショーを楽しめる。
* * *
人間、動物ときて、次は何か。スーパーの蟹を愛でている自分がこれから好きになるものは。
植物、だそうだ。
* * *
「齢六十七十、この辺りまでくると心が静けさを求め始める。
感情のやりとりに倦み、物言わぬ植物に惹かれ始める」
たしかに言われてみれば、盆栽、庭いじり、こういった趣味は隠居生活を送っている人に多いイメージはある。
芽吹く緑や揺れる花弁を愛し、何事においても穏やかに毎日を過ごす。
自分もいずれこの域に達するのだろうか。
今はまだスーパーの蟹を愛でるにとどまっているけれど、そのうち白菜や豆苗にも特別な感情を抱き始めるのだろうか。
* * *
「人生も最終盤にかかる八十九十、ここまでくると一つの境地に至る。雨、風、陽射し、そういった自然の営みそのものを愛するようになる」
ついに生命体から興味を失ってしまった。
縁側でひなたぼっこをしている老人は、何もしていないわけではなく、陽射しと戯れていたのだ。時間とともに角度を変える陽の光を友とし、それを遮る雲を別の友としていたのだ。
* * *
この話をどこで誰に聞いたのかは覚えてない。お坊さんがしそうな話ではあるが、思い出せる限りそういった場所には行ってない。たぶんネットか何かで教えられたんだと思う。蟹も出てこなかったと思う。