これは2年前か3年前か、関東に大型台風が上陸した日の夜、我が家で起きたちょっと不思議な出来事の話。
そんなに昔の話ではないので、大筋において私の記憶は間違ってないと思う。少なくとも「あれ」に関しては、見間違いや勘違いの類ではないと断言できる。
今でも妻とこの話をすることがあるが、そこでお互いの記憶が食い違ったりすることもない。
妻も同じものを、はっきりと見ている。
手で触ったのは私だけだが。
* * *
夏がもう終わるという頃、関東に大型台風が上陸する、というニュースが流れた。
平成において最大級の台風で、少なからず被害は出ると思うので覚悟しろ、といった内容だったと記憶している。
この手の報道は大袈裟に言うのがセオリーであり、今まで何度も肩透かしを食らっているので、その日も大した危機感を持たずにテレビ画面の進路予想図を眺めていた。
私と妻が住むマンションは駅から少し歩いた住宅街に位置している。
駅の方まで行けば小さな川が流れているが、流れ自体は道からかなり下にあるので、たとえ大雨で増水したとしても、氾濫とまではいかないだろう。
心配すべきは、雷が落ちて停電するとか、目の前の道路が冠水して身動き取れなくなるとか、そっちのほうな気がする。2階なので床下浸水もないだろうし、家の中にはそれなりの防災グッズもある。多少のことなら何とかなる。多少を超えるようなことになったら、その時はその時だ。
そんな気持ちで台風を待ち構えていた。
* * *
夕方、私は玄関から外に出て、マンションの廊下で煙草を吸っていた。
さてどうなることやら、なんて思いながら灰色に覆われた空を見上げる。
まだ雨は降ってきていないが、風はかなり強くなってきている。
明らかに普段と違う強風が不安感と高揚感を煽る。
煙草の先からトンと灰を落とす度に、小さな火の粉が真横に吹き飛んでいくのが見えた。
灰皿の上で煙草をもみ消すと、たくさんの火の粉が小さな火の鳥の尻尾みたいに吹き飛んで、一瞬で空中に消えた。
おとなしく家の中に戻って、事の次第を見守ることにする。
* * *
夜になり、予報通り台風が直撃した。
暴風が窓を揺らし、豪雨は普段聞かない音を立てて壁を打ち続けていた。完全に予想以上。
こりゃすごいなと妻に言い、すごいねと妻も言う。さすがに家は壊れないだろうが、近くの木とか電柱あたりは傾いてるかもしれない、とカーテンを開けて外を伺ったりする。
平成最大級の台風の力を見くびってはいけない、と気を引き締める。
交通機関は全て運転を見合わせています。外出は控えるように。
気象情報を見るに停電しているところもあるようだ。
とりあえず電池で使えるランタンを見える場所に置いておく。
なんだか武者震いを起こしているような、何かが起きる予感がするような、妙にそわそわした気分になってきたので、一旦気持ちを落ち着けようと思い、外に煙草を吸いに行くことにした。
喫煙者は馬鹿なので、大型台風が来ようが外に出てしまう。
玄関から出るだけなので、いわゆる外出とは意味が違うのだよ、と自分に言い聞かせて…
* * *
玄関を出ると、目の前に、でっかい蛙がいた。
手足を伸ばせば20センチ以上はあるだろうか。
廊下の壁に向かってびょんびょん跳んではぶつかっている。
このとき、驚いて声を上げたと思う。
普段叫んだりしないので、驚いて声を上げた自分自身に驚いた。
なんで蛙が。頭が混乱する。落ち着こう。
カエルという生き物は嫌いではない。むしろ好きなほうだ。にしても、ちょっと出会いが急すぎる。
急すぎるし、サイズがおかしい。
雨と風が吹き込む廊下で、蛙は元気に跳びまくっていた。
混乱したまま、とりあえず妻を呼んだ。
巨大な蛙がいることに驚いたが、妻も苦手ではないので悲鳴を上げるようなことはなかった。わぁとかうぉとか、そのくらい。
捕まえて別の場所に移そう、ということになった。うちは2階の一番奥で、蛙はしきりに廊下の行き止まりの壁に体当たりしている。放っておけば別の場所に行く、という雰囲気ではない。
二人して蛙を追いかけ回した。
蛙は力強く跳びまわってなかなか捕まえられない。私の膝の高さまで平気で跳び、着地と同時に自身の重みに押し潰されて、空気が漏れるようなゲコっという低い音を立てた。
どうにかこうにか私が捕まえた。
暴れても落ちないようにしっかり両手で運ぶ。
…さて困った。別の場所に移すといっても、どこにやればいいのか。
台風の真っ只中、部屋着のまま両手で蛙を持たされて、さてどうする。
投げ捨てるわけにもいかず、結局、1階に続く階段の途中に置いて戻った。
これだけ元気なら放っておいてもそうそう死にはしないだろう、というのはあった。雨風が強烈なので建物の外に出たくない、というのもあった。むしろ下手に建物の外に出してしまうと車にひかれてぺしゃんこになる可能性が──台風なので車はほぼ走ってないけど──なくもないだろう、とも思った。
なにより、こいつがどうやってここまで来たのかの想像がつかないので、どうやったらこいつが元の場所に戻れるのかの想像もつかなかった。
* * *
家に戻り、手を洗いながら今の出来事を振り返る。
たぶん、あれはウシガエルだった思う。体にイボイボはなかった気がする。イボガエルヒキガエルだったのなら、その見た目から多少は触るのを躊躇したと思う。トノサマガエルみたいな分かりやすい模様もなかった。
…ほんと、どこから来たんだろう。駅前の川か?
それしか考えられない。が、距離と経路を考えると無理があるように思える。実は隣の部屋の人がウシガエルを飼育していて、それが台風に驚いて逃げ出した、と言われたほうがまだ納得できる。そのくらいの距離はある。
まあ良い。駅前の川から頑張ってここまで来た。そう思うとしよう。
あの蛙は台風に興奮して、おかしな行動をとってしまったんだろう。
…台風。
あぁ、避難か。
野生の本能か何かで、川が氾濫する可能性を察知して、高いところ高いところへと避難した。そして、偶然ここに辿り着いた。
これかもしれない。理由としてはまともに聞こえる。
…いや、だとしても、川からここまで来れるかといったら…
…うちより侵入しやすくて、うちより高い場所が他にもあるだろうに…
次の日、綺麗に空は晴れた。川も氾濫しなかった。
あの蛙がどうなったか気にしながら外を回った。1階の廊下もちらりと見た。ひと通り建物の周囲を見て回ったが、予想通り影も形もなかった。
死体もなかった。台風と共に蛙はどこかに行ってしまった。
* * *
あれから駅前の川べりの道を歩くたびに、なんとなく下を覗き込んで蛙の姿を探してしまう。
鯉や水鳥ならすぐに見つかるが、蛙となると相当注意して探さないと見つからないようで、未だその姿を目にしたことがない。
あの台風から数年が経った。今となっては蛙がどこから来たのかなんて、割とどうでもよくなっている。
近所を歩き回ったところで、見えないところはいくらでもあるし、普段はそういうところで静かに暮らしているんだろう。
* * *
一度、こんな風に考えたことがある。
もしかしたらあの夜、あの蛙に、我が家は選ばれたのではないか。
偶然ではなく、うちを目指してあのカエルは来たのではあるまいか。あの蛙にとって一番安全な場所がうちの玄関先だった。だから台風の中を必死に、自分の命を守るために、ここまで来たんじゃないのか。
そう考えると、ちょっと悪いことしたな、という気になる。
あれから何度か台風を経験しているが、蛙が来たのはこの時だけだ。
ちょっとやそっとの台風では来ないのかもしれない。
もしくは無事生還したあの蛙が、あそこに行ったら階段に放置されるぜ、と仲間に教えて、うちの玄関先の評価を下げたのかもしれない。
* * *
となると、こういう風に考えることもできる。
実はあの夜、玄関を出たとき、「カエルの恩返し」がすでに始まっていた。そして私は最初の選択肢を間違ってしまった。……
あの時の正解は、「階段に放置する」じゃなくて「家の中で保護する」だった?玉手箱を入手するチャンスを、みすみす逃してしまったか?……
* * *
いやはや、防災グッズにカエル用の水槽を追加する必要性が出てきてしまった。
たぶん買わないと思うけど。